Aug 01, 2010
癌で死んだ友人の母
友達のお母さんが61歳の若さでこの世を去った。アムイオトダ。ずっと体調が悪いと述べたが、本当に死んだのでは非常に衝撃を感じた。それでも友人は特に何も気にせずに仕事をしていた。母を癌で早く失ったのはショックだ。頑張っても、こればかりは仕方ないの病気である。ここで後悔をしていきたい。免疫療法で使用される成分、β-グルカンと呼ばれるものです。これは、アガリクスなどです。免疫療法の作用で免疫力を高めるのはもちろんの抗癌作用があります。そして、大食いを活性化させるのです。これらが含まれる食品は、姫マツタケがありますが、これがアガリクスです。そして、ハナビラタケなども含まれてるんですよ。
【萌える日本史講座】(5)
大阪北部に位置するJR高槻駅から徒歩で南東に約20分の「城跡公園」(大阪府高槻市城内町)に、精悍(せいかん)な顔つきで、十字剣をもつ武将の像が立つ。キリシタン大名として名高い、高山右近(1552〜1615年)だ。テレビで取りあげられることもあり、右近の資料を所蔵する高槻市立「しろあと歴史館」への問い合わせも増えているという。でも、待てよ? 右近は武田信玄や上杉謙信のように戦(いくさ)上手として知られたわけでもなく、天草四郎やジャンヌ・ダルクのようなカリスマとも違うような…。現代人を魅了する「右近の力」って一体どこにあるんだろうか? (高田祐樹)
■実はマッチョマン?
実は、武将としての右近の戦歴は華やか。明智光秀の三日天下が消えた1582(天正10)年「山崎の戦い」では、秀吉配下の先鋒として活躍。その後も織田信長後の天下をめぐり、羽柴秀吉配下で柴田勝家と戦った1583(天正11)年「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」や翌年の徳川家康との「小牧・長久手の戦い」などに参加している。
1587(天正15)年のバテレン追放令で大名の座を追われてからも前田利家に客将として迎えられて活躍。1600(慶長5)年「関ケ原の戦い」でも、東軍方で前田軍を率いて、戦っており、生涯を通じて戦国武将であり続けた。
こうしたキャリアを持ちながら、なぜか右近は屈強な武将としてのイメージは強くない。「しろあと歴史館」の中西裕樹事務長は「おそらく賤ヶ岳の戦いが原因。中川清秀が戦死しているのに、右近は撤退しているんです。この行動はその後も批判的に論じられています。ここから戦下手の右近像がつくられたのでは」と指摘する。
しかし、中西事務長は「本当に戦下手なら、そもそも戦国大名が務まらないし、信長や秀吉の配下、前田家の客将として重用されない。マンガなどに登場すると繊細でイケメンな右近ですが、戦歴からはむしろマッチョな戦国武将のイメージが浮かびますね」という。
加えて言えば繊細なイメージには、バテレン追放令への対応があるのではないか。信仰のために討ち死に覚悟で秀吉と一戦を交えるわけでなく、右近は追放を甘受する。こうした右近の行動は「武将らしくない」ものとして受け止められやすいのかもしれない。
■暴君・右近の宗教弾圧?
後に信仰を理由に追放された右近だが、自身も領地の寺社の焼き討ちを行ったという伝承も残る。ポルトガルのイエズス会士、ルイス・フロイスは著書「日本史」で「仏僧らは山間部にこれら大量の悪魔の像を隠匿していたが、それらは間もなく破壊され火中に投ぜられてしまった」と記している。現代的感覚で言えば右近は暴君だったことを示すようなエピソードだ。
だが、中西事務長は「領内でキリスト教が普及したことなどで、寺社はこの時期、自然衰退したと考えられます」と指摘する。「後に徳川家から復興支援を受ける際、没落の理由を右近の布教として挙げたのでは」との説を有力視している。
焼き討ちを行ったと思われる時期に、領内で創建された寺社があることや、比叡山焼き討ちで知られる信長でさえ、敵対関係でなければ保護政策をとっていたことも寺社自然衰退説を補強しているのだという。
右近が高槻城主だったのは1573〜1585(天正元〜15)年の12年間。築城や城下町整備も手がけた右近にとって宥和政策を選択することは、キリスト教を根拠とした理念的な政策判断というより、対外的に緊張状態が続く戦国の世にあって、領内の安定を選ぶのは現実的な判断だったと思われる。それだけに深刻な対立を生んだであろう宗教弾圧を行ったとは考えにくい。
■おしゃれで堅物?
華やかな戦歴の右近に風流な一面もあることを忘れてはならない。戦国武将のたしなみであった茶道では、茶人・千利休の高弟「利休七哲」の1人に数えられる相当な文化人であった。
現代に伝わる右近の服装も特徴的だ。高槻市や香川県土庄町のカトリック小豆島教会にある右近像は、日本刀ではなくキリスト像が配された剣を持つ。カトリック高槻教会の右近像はボタン付きのシャツらしきものを羽織の中に着ている。
さらに信長の伝記「信長公記」にも右近の洋装についての記述があり、南蛮渡来の文化を受け入れたファッショナブルな一面が浮かび上がる。
一方で、性格を特徴づけるエピソードも残る。側室をもたなかったといい、秀吉配下の武将たちが女性の話をして盛り上がっていても、その場に右近が来るとしらけてしまったという。
信長の弟、織田有楽斎は右近の茶について「清の病がある」と潔癖すぎると指摘。右近は人によっては堅物すぎる面白みのない人物に映ったことだろう。
そのきまじめさが際だつのは、やはり秀吉のバテレン追放令だ。同じくキリシタン大名だった小西行長や蒲生氏郷が面従腹背し、表だっての信仰を捨てる中、信仰を選んだ右近は領地を没収されてしまう。その後、行長や利家のもとに身を寄せ、最期は1614(慶長19)年、キリシタン禁教令で一族とも国外追放され、翌年フィリピン・マニラで生涯を閉じる。
右近は、表面上だけでも上司(秀吉)に従った同僚(行長、氏郷)らとは違って、信仰に生きることを選んだ。華やかな戦歴、城下町づくりに取り組んだ統治能力、優れた文化的センス…。処世術さえ人並みに発揮すれば、享受できた現世的な利益を捨て、信仰に生きることを選んでいる。
風流を好む一方で、不器用にも映る一途で誠実な人柄。加えて現代に伝わる武将らしからぬイメージが、平和な平成の世にあってはかえって愛され、親しまれる右近像を作り上げているのかもしれない。
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